>>81708892それは、単に九州は早期に「弥生」文化になったということ。
僕は文化様式・社会様式としての「弥生」を重視して、水稲が近畿以西に広がり、定住集落群や初期の邑が形成された紀元前4世紀前後を時代区分として設定するのが適切だと考えている。
だから「僕は弥生の時代区分については全体としてBC300年頃を採用している」と「全体」と書いているわけ。ただしこれは自説であるわけ。まあ、山川の日本史の教科書それくらいだったかな。
最新の時代区分は、弥生を九州を基準として紀元前10~11世紀とする。となると、700年近く関東では縄文時代の生活様式が続いていてことになる。
で、僕は「古い水田の遺跡は大陸から来た人が作ったというのが自然」と書いている。つまり、それは紀元前10世紀前後のものは例外であって、西日本全体に及ぶのは早くとも紀元前8世紀頃、日本の社会構造全体に及ぶのは紀元前4世紀頃であり、時代区分としての「弥生」と弥生文化は区別して考えているというこでもある。
菜畑遺跡のことを必死に書いているけど、菜畑遺跡を特徴づけるのは突帯文土器で、縄文と弥生土器のミッシングリンクと考えられており、
「初期は深鉢と浅鉢の縄文土器のみの組成をとるが、朝鮮半島南部の移住者を受容して水稲耕作を開始した北部九州の一部地域では、当初から朝鮮無文土器ないしその系譜を引く甕、壺、鉢と新出の高坏たかつきとの複合的組成を持つ。後半には北部九州の二条刻目突帯文土器が、壺などとともに他の刻目突帯文土器圏に伝わり、弥生文化の波及に一定の役割を果した」とされるj。(
https://ja.wikipedia.org/wiki/菜畑遺跡)。
「朝鮮半島南部の移住者を受容して水稲耕作を開始した」と明記しているんだけど。
そして文化の区分としての「弥生」について西日本で「従来縄文時代晩期」と考えられていた紀元前11~10世紀に北九州の一部では「弥生最初期」が始まっていたという言い方がされる。
現在の定説は
「北部九州に弥生文化が発生して約250年後弥生文化は西日本各地に伝播し始め、高知平野では紀元前8世紀、山陰・瀬戸内では紀元前7世紀に弥生時代が始まり、畿内の河内平野では紀元前750〜550年頃の間に弥生時代が始まったとされている紀元前6世紀には濃尾平野、伊勢湾地域にまで拡散したが、弥生文化の拡散は濃尾平野、伊勢湾地域でいったん止まってしまう。
東日本には紀元前3世紀、関東地方西部に初めて弥生文化が定着したことが、小田原市の中里遺跡の発掘によって確認されている。中里遺跡では集団の編成方法や運営、生活技術などに畿内の影響が指摘されており、近畿中央部からの入植によって弥生文化の扶植が図られたことが明らかになっている。その後紀元前2世紀には関東地方西部一円に弥生文化が拡散した。
これよりさかのぼって、紀元前4世紀の津軽・砂沢遺跡、紀元前3世紀の垂柳遺跡で水田稲作の痕跡が確認されているが、水田農耕によって社会変化が起きた痕跡は確認されておらず、弥生文化には含まれない。」(
https://ja.wikipedia.org/wiki/弥生時代)だろうね。
「縄文」と「弥生」のメルクマールは「水稲耕作」の有無だが、それによる社会構造の変化は、西から東へ伝播しいった。今のところ、それを覆す発見は知られていない。
>関西をスっ飛ばして水田が普及してるで、ソースは?
ちなみに
>>81704850は、「その頃の倭の服装は大陸や半島とは全然違うと書いている」が、そのソースは? 君は絵本で読んだのを信じているんじゃない?